春夏秋冬・喜怒哀楽 今日の私のココロ模様

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92歳寂聴さん聴衆と一緒に般若心経を唱えがん手術後初の法話

「命ある限り、戦争反対」 92歳寂聴さん、がん手術後初の法話

 療養中だった作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん(92)が8日、京都市右京区の寂庵で11カ月ぶりに法話を行った。昨年5月に背骨の圧迫骨折をして以来、公の場に登場するのは初めて。集まった約300人を前に「おかげさまで死に損なって今日を迎えることができた。お会いできるのが不思議。仏さまが守ってくださった。本当にありがとうございました」と復活をアピールした。

 瀬戸内さんは骨折後、昨年9月に胆のうがんが見つかり、手術後はリハビリ生活を送っている。今年に入り、体調も回復したため、釈迦(しゃか)の生誕を祝う「花祭り」に合わせ、約15分のミニ法話を行うことにした。午前11時前、袈裟(けさ)姿の瀬戸内さんがしっかりとした足取りで本堂に入ると、満堂の聴衆から「おめでとうございます」の声が掛かり、大きな拍手が起こった。

 瀬戸内さんが「一番遠い所から来られたのは誰?」と尋ねると、「ニューヨーク」との返事があり、驚きの表情を見せた。終始、立ったままで療養生活について話し、「ここに皆さんが来られたのは、お一人お一人が病気や心配事がなく幸せで、仏さまが守ってくださっているから。どうぞ仏さまに感謝してください」と呼び掛けた。続いて、聴衆と一緒に般若心経を唱え、読経後は和やかな表情で握手を交わした。

 瀬戸内さんはこの後、記者会見を開いた。療養中に全国のファンからお札やお守りが寄せられたことを明かし、「そばに置き、痛い時はそれで体をさすり、楽になった。皆さんの祈りのおかげ」と感謝した。

 療養が長引き、一時はうつ状態になりかけたが、「治ったら小説を書こうと気持ちを明るく持った」とも語った。戦後70年への思いを聞かれ、「与えられた命がある限り、戦争反対と原発は要らないということを言い続けたい」と力を込めた。

■寂聴さんが新刊「死に支度」 91歳の出来事交じえ細やかに 


瀬戸内寂聴さんが自らの臨終について思いをつづった小説「死に支度」 臨終をどう迎えるか-。誰もが心によぎる思いをテーマに、作家の瀬戸内寂聴さん(92)が長編私小説「死に支度」を出版した。91歳の1年間の出来事を交じえながら、死への思いを細やかにつづった。療養中のため、電話でのインタビューに応じた瀬戸内さんは「今の寝たきりのままでは死なない。リハビリをしてもう一度起き上がり、小説を書きたい」と話す。

 物語は、秘書や会計を務める女性スタッフたちが「私たちを養ってくださるためにお仕事が減らせない。暮らし方を変えてほしい」と退職を申し出たところから始まる。瀬戸内さんは「春の革命」と呼び、20代のスタッフ、モナとアカリとの3人の生活を始める。

 原稿の締め切りに追われながら全国各地で講演し、東京都知事選に出馬した元首相の応援もするという超多忙な日々。モナ、アカリと笑いころげ、冗談を言い合う寂庵での暮らしもつぶさに描く。生命力と愛らしさにあふれる瀬戸内さんの素顔に引きつけられる。

 同時に、今は亡き人々の晩年や臨終の姿もつづられ、物語に深い陰影を落とす。死に目に会えなかった両親と姉、作家の連城三紀彦さんや比叡山大阿闍梨(あじゃり)の酒井雄哉さん…。ゆかりの人々の人生に加え、一遍や明恵が望んだ臨終の姿を通し、自身の老いや死への思いを深めていく。

 「51歳で出家してから、死に際の作法について記した臨終行儀をいつか書こうと思っていた。91歳になったので文芸誌で連載を始めたけれど、1年がたち、『ここで書き終えたほうがいい』と勘が働いたの」

 本書で驚くべき結末を導いてまもなく、背骨の圧迫骨折が発覚した。3カ月後には胆のうがんが見つかり、胆のうを全摘した。がんが見つかった時は驚いたが、死の恐怖はなかったという。

 「誰もがかかるし、簡単には死なない。へんとう炎のような気持ちでした。初めて全身麻酔をする時は怖かったのだけれど、麻酔が効く時ととける時にとても気持ちが良くて『これが死ぬ時の無かな』『極楽かな』と思ったの。無を味わえたのはとても良かった」

 現在はリハビリの日々を送り、寝たきりの状態から座って食事ができるまで回復したという。「この小説が最後と思っていたけれど、病気になったことで、もうちょっと書きたいし、簡単には死ねないと思った。ひどいことが続いたし、次のタイトルは『神も仏もない』にしようかしら」と笑い声が届いた。

★瀬戸内 寂聴(せとうち じゃくちょう、1922年(大正11年)5月15日 - )は、日本の小説家、天台宗の尼僧。旧名は瀬戸内 晴美(せとうち はるみ)。

僧位は大僧正。1997年文化功労者、2006年文化勲章。学歴は徳島県立高等女学校(現:徳島県城東高等学校)、東京女子大学国語専攻部卒業。

学位は文学士(東京女子大学)。
徳島県徳島市名誉市民の称号を取得。京都市名誉市民。
天台寺住職現名誉住職。比叡山延暦寺禅光坊住職。元敦賀短期大学学長。代表作には『夏の終り』や『花に問え』『場所』など多数。近年では『源氏物語』に関連する著作が多い。これまでの著作により多くの文学賞を受賞した。

経歴

徳島県徳島市塀裏町の仏壇店(瀬戸内商店)を営む三谷家の次女として生まれ、後に父が従祖母の家である瀬戸内家養子となり、女学校時代に晴美も瀬戸内に改姓。

東京女子大学在学中の1943年に21歳で見合い結婚し翌年に女の子を出産、その後夫の任地北京に同行。
1946年に帰国し、夫の教え子と恋に落ち、夫と3歳の長女を残し家を出て京都で生活。

大翠書院などに勤めながら、初めて書いた小説「ピグマリオンの恋」を福田恆存に送る。
1950年に正式な離婚をし、東京へ行き本格的に小説家を目指し、三谷晴美のペンネームで少女小説を投稿し『少女世界』誌に掲載され、三谷佐知子のペンネームで『ひまわり』誌の懸賞小説に入選。
少女世界社、ひまわり社、小学館講談社少女小説や童話を書く。また丹羽文雄を訪ねて同人誌『文学者』に参加、解散後は『Z』に参加。なお長女とは後年出家後に和解したという。