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「新型コロナウイルスの流行はピークに達したとみられる」と日本感染症学会 尾身会長発表! それでいいの?

日本感染症学会 尾身会長「流行はピークに達したとみられる」と発表

東京で開かれている日本感染症学会で政府の新型コロナウイルス対策分科会の尾身茂会長が講演を行い、現在の流行について「今後の推移に注意が必要だが、全国的にはだいたいピークに達したとみられる」とする見解を示しました。

20日は、政府の分科会の尾身会長が講演を行い「東京や沖縄、大阪などでは医療機関への負荷が大きい状況が続いているが、今の流行は全国的にはだいたいピークに達したというのが私たちの読みだ。今後の推移を注意深く見守っていく必要がある。これまでの経験から流行を乗り切るには医療機関や保健所への支援や接待をともなう飲食店、そうした地域などへの支援が重要なことがみえてきた。国に対して早急にこうした支援ができる体制の確立を求めたい」と述べました。

また、分科会のメンバーで、クラスター対策に取り組んできた東北大学の押谷仁教授は講演で「最新の発症日別のデータからは全国的に7月下旬から8月はじめごろにかけて山があったようにみえるが死亡者数が徐々に増えていることもあり、慎重に見極めが必要だ。第1波に比べて、現在の流行ではある程度リスクを制御することはできているが、これをゼロにしようとすると社会・経済活動を著しく制限せざるをえない。今後、どこまでリスクを許容するか、社会的な合意を得るため真剣に考えていく必要がある」と指摘しました。

尾身会長は国民を安心させる為に「今後の推移に注意が必要だが、全国的にはだいたいピークに達したとみられる」と発表したと思われる。

 

◆コロナ、「2年未満」で収束可能 スペイン風邪より短期間 WHO
世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長は21日の記者会見で、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的流行)について、1918年から約2年間流行が続いたスペイン風邪と比較し、より短い「2年未満」で収束が可能だとの見通しを示した。

 
 テドロス氏は、スペイン風邪流行時と比べると、現在はグローバル化による人間の接触増加など不利な点がある一方、ワクチンなど「進んだ技術」が存在しているなどの利点もあると強調した。

 

「大体ピーク」それでいいのか非常に疑問だ。

 

なぜなら100年ほど前に「スペインかぜ」が世界的に流行したことがある。この時には第3波まで続いている。

 このことを踏まえて対策をとる必要がある。危機管理がなってない。

ゼロにすることは不可能にしても今よりも「生命優先政策」に舵を切らないと感染者と使者は増える一方ではないだろうか?

 

というのは新型コロナウイルスは変化して又流行する可能性もある。

 

 ワクチンは作られるそうだが確実に効くとは限らない。

 

"それでいいの?" 非常に不安を感じる今日この頃である。

 

 


◆スペインかぜについて
スペインかぜ(スペイン風邪、英語: The Spanish Flu (influenza))は、1918年-1920年に世界各国で極めて多くの死者を出したインフルエンザによるパンデミックの俗称である。第一次世界大戦時に中立国であったため情報統制がされていなかったスペインでの流行が大きく報じられたことに由来する(スペインが最初の発生源という訳ではない)。1918年パンデミックとも呼ばれる。

1918年1月から1920年12月までに世界中で5億人が感染したとされ、これは当時の世界人口の4分の1程度に相当する。その中には太平洋の孤島や北極圏の人々も含まれた。死者数は1,700万人から5000万人との推計が多く、1億人に達した可能性も指摘されるなど人類史上最悪の感染症の1つである。アメリカ合衆国ではパンデミックの最初の年に平均寿命が約12歳低下した。

近年の研究により、スペインかぜはH1N1亜型インフルエンザウイルスによるものと判明した。H1N1によるパンデミックは、スペインかぜと2009年の新型インフルエンザの2回である


●第1波 (1918年3月–)
1918年3月4日、カンザス州のアメリカ陸軍ファンストン基地で、アルバート・ギッチェル (Albert Gitchell) という名の兵士が発熱、頭痛、喉の痛みを報告し、これが記録された最初のスペインかぜの症例とされている(それ以前にも記録にない感染例があった可能性が高い)。同日にはギッチェルの同僚である他の100人以上の兵士も同様の病状を訴え、ファンストン基地ではその後数日以内に計522人の罹患が報告されることとなった。

当時アメリカは第一次世界大戦に参戦中であり、ヨーロッパへ渡るアメリカ外征軍の大規模訓練場として使われていたファンストン基地で始まったインフルエンザの流行は、他のアメリカ軍基地やヨーロッパへと急速に拡大した。1918年4月を迎えた時点で、アメリカ中西部および東海岸、フランスの複数の港でエピデミックが発生しており、4月中旬までに流行は西部戦線に達した[33]。その後流行はフランス全土、イギリス、イタリア、スペインへと広がり、5月中にロシア領オデッサ、ドイツ領ヴロツワフにまで到達した。5月には北アフリカ、インド、日本にも感染が拡大し、6月には中国でアウトブレイクが報告されたが、7月にオーストラリアに達した後、パンデミックの第1波は後退を始めた。

1918年の第一四半期に始まったスペインかぜの第1波は、比較的穏やかな波であった。死亡率は平時と比べて際立って高いものとはならず、アメリカで1918年1月から6月までに報告されたインフルエンザによる死者は最大7万5,000人にとどまり(1915年の同時期でも最大6万3,000人)、スペイン・マドリードにおける1918年5月–6月の死者数も1000人未満だった。一方で、第1波はフランス軍、イギリス軍、およびドイツ軍の兵力の多くを罹患させたため、第一次世界大戦の軍事作戦には大きな混乱がもたらされた。

第一次世界大戦中の士気維持のため、アメリカやヨーロッパの各国でインフルエンザの流行について報道統制が行われた一方で、中立国であったスペインでは被害の状況が自由に報道された。首都マドリードでは1918年5月頃から第1波についての新聞報道が始まり、その後国王アルフォンソ13世が罹患すると報道はさらに大々的になった。第1波時にスペイン発の報道が注目された結果、発生源はスペインであると広く信じられ、このパンデミックは世界的に「スペインかぜ (Spanish flu)」と呼ばれることとなった。

●第2波 (1918年8月–)
1918年8月の後半、変異により毒性の高まったウイルスの流行が、アメリカのボストン、フランスのブレスト、シエラレオネのフリータウンという3つの港湾都市でほぼ同時に発生し、パンデミックの第2波が始まった。アメリカではボストン海軍工廠およびボストン近郊のディベンス駐屯地(英語版)から各地の軍事施設へと急速に感染が広がった。
大戦による軍隊の移動にも助けられ、第2波は2カ月のうちに北アメリカ全土に拡大し、その後中央アメリカ、南アメリカにも到達した。ブレストで始まった流行は1918年9月末までにヨーロッパのほぼ全域に広がり、各国の軍事作戦も小康状態に陥った。ヨーロッパの第2波はロシアにも拡大し、ロシア内戦やシベリア鉄道を通じて北アジア全域へと持ち込まれた後、イラン(ペルシア)に達した。1918年9月にはインド、10月には中国と日本にまで到達した。1918年11月、第一次世界大戦の休戦協定に伴う祝賀行事がロンドンやリマ、ナイロビなどで感染拡大を招いたものの、第2波は1919年12月までに世界的にほぼ収束した。

 

スペインかぜの第2波は通常のインフルエンザに類似していた第1波とは異なり、健康な25–35歳の若年者層において非常に高い致死性を示し、死亡者数も大幅に増加した。第2波の最中である1918年10月はパンデミックの全期間中で最も多くの死者を出した月となった。アメリカでは最大29万2000人の死亡が1918年9月–12月に報告され(1915年の同時期には最大2万6000人)、イギリスでもスペインかぜによる総死者(22万8000人)の64%が1918年10月–12月に発生したと考えられている。

●第3波 (1919年1月–)
1919年1月、第2波による被害を免れたオーストラリアを第3波が襲い、1万2,000人以上の死者を出した。その後、第3波は1月中にアメリカ・ニューヨークとフランス・パリに到達し、4月にはパリで講和会議に出席していたアメリカ大統領ウィルソンも罹患した。第3波は欧米では1919年の夏(北半球)までに収束したが、その後はチリやペルーなど南半球の国々や日本に遅れて到達し、各地で大きな被害を出した。日本は1920年1月から2月にかけて第3波に襲われた。

第3波の毒性は第1波よりも高く、第2波よりも低かった。アメリカにおける1919年1月–6月のスペインかぜによる死者は数万人であった。スペインにおける1919年のインフルエンザによる死者は約2万1,000人であった(1918年の死者は約14万7,000人)。

第3波では最初に医師・看護師の感染者が多く、医療崩壊してしまったため、感染被害が拡大した。この経緯を教訓とし、2009年新型インフルエンザの世界的流行の際にはインフルエンザワクチンを医療従事者に優先接種することとなった。世界規模で猛威を振るったスペインかぜであるが、世界規模に広がったことにより、死者も甚大になった一方で、生き残った人は抗体を獲得して、集団免疫を形成することによって、感染者の減少へと繋がって収束した

 

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